前田慶次郎利益(Maeda Keijirō Toshimasu)
         
       
       
    前田慶次郎利益  
    Maeda Keijirō Toshimasu  
    Keijirō Toshimasu Maeda  
       
       
     
  天文2年(1533年) ▶︎ 慶長10年11月9日(1605年12月18日) ※生誕・死没については諸説あり。  
  前田慶次郎は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した「傾奇者 / kabukimono」として有名な武将で、加賀百万石・「前田利家 / Maeda Toshiie」の甥(養子)にあたり、奇抜な風貌、武術については弓馬はもちろん、武芸十八般にも通じ、高い文化的素養も備えた文人武将でもあった。出生を含めて謎に包まれた人物で、虚実入り混じった多くの逸話が残っている。 現在では小説や漫画の影響もあって、天下御免の傾奇者「前田慶次郎利益 / Maeda Keijirō Toshimasu」のイメージが定着している。  
  慶次郎の実父は滝川氏(「織田信長 / Oda Nobunaga」の重臣「滝川一益 / Takigawa Kazumasu」の一族)と伝わるが、続柄については諸説ある。後に、母が前田利家の兄「前田利久 / Maeda Toshihisa」の後妻となったために養子となり、前田姓を名乗るようになる。  
  織田信長の死後、豊臣政権時代に前田利家は能登の旧領に加え、加賀二郡を加増される。 このとき利久と慶次郎は利家を頼ることとなり、利久は七千石を与えられ、五千石を慶次郎に与えている。  
  天正18年(1590年)には「豊臣秀吉 / Toyotomi Hideyoshi」の小田原征伐が始まり、慶次郎もこれに参加している。  
  慶次郎は父の利久を亡くしてからは、徐々に利家に対する反発も生まれ、天正18年(1590年)以降、突然利家の元を離れる。  
  その後、前田家を出た慶次郎は京都で浪人生活を送りながら、公家や文人との交流を盛んに行い、和漢古今の書に親しみ、連歌は当時の第一人者紹巴に学び、茶道は千利休七哲の一人である伊勢松坂城主古田織部に皆伝を受けたといわれている。 また、諸大名の邸宅にも遊びに出入りし悠々自適の生活を送ってた。 この時期に直江兼続に出会ったと考えられる。  
  慶長3年(1598年)秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。  
  慶長3年(1598年)から関ヶ原の戦いが起こった慶長5年(1600年)までの間に、慶次郎は兼続を通して上杉景勝に接し、寡黙でありながら武と真義を誇る景勝に惚れ込み、上杉家に仕官する。  
  天下分け目の戦い関が原の合戦が始まり、慶次郎は最上勢との戦い(長谷堂城の戦い)に出陣し、功を立てたとされる。  
  関が原の合戦敗戦後、上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石に減移封。慶次郎は米沢に残り、堂森山近くの清水のほとりに庵をかまえ、風化吟月を友とし、近隣住民と交流を深め、悠々自適の生涯を送ったと言われている。  
     
  [外部リンク]  
  前田慶次 - 米沢観光Navi  
  米沢の武将・前田慶次 - 山形県米沢市|戦国武将と米沢市の観光情報 - 武士の時代  
  前田慶次と米沢市 - 宮坂考古館  
  米沢の偉人|前田慶次 - 米沢観光Navi  
  『花の慶次 ―雲のかなたに―』公式サイト  
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