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| 忍者 | ||||
| Ninja | ||||
| 忍者とは、日本特有の兵法として発達した忍術の使い手の事で、室町時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え、また独立して諜報活動、破壊活動、浸透戦術、謀術、暗殺などを仕事としていた特殊技能者集団である。 忍者という呼び名が定着したのは昭和30年代になってからで、歴史的には「忍び / Shinobi」とも呼ばれていた。他にも乱波 / rappa・透波 / suppa・草 / kusa・奪口 / dakko・かまり、など各地で独自の名前で呼ばれていた。 | ||||
| 忍者のトレードマークである黒装束は、江戸時代に庶民が夜間の活動に用いたものを舞台で誇張して描いたもので、実際の忍者は敵の本拠地に侵入する為、僧や曲芸師、山伏や行商人、農民などに変装し、生活者に紛れて活動することが多いい。さらに忍装束は渋柿色のような茶色いものが多く、現代で描かれているような紺や黒などの色は一般的ではなかった。 | ||||
| 忍者にとって最も重要な仕事は、敵方の状況を主君に伝えることで、極力戦闘を避け、生き延びて戻ってくる必要があった。 | ||||
| 敵と戦闘になったときは、コンパクトな作りが特徴の忍刀 / Shinobi-Katanaや手裏剣 / Shurikenなどを用いた。 その他にも火術や呪術、幻術などを用いたり、薬学などにも精通していたと言われ、物語のような超常的な力はフィクションである。 | ||||
| [日本各地の主な忍者集団] | ||||
| 忍者といえば伊賀と甲賀の忍者が非常に有名だが、忍者は日本各地に存在していた。伊賀(現在の三重県伊賀市)・甲賀(現在の滋賀県甲賀市・湖南市)は、まわりを山という天然の要害に取り囲まれ、大名勢力が弱いこともあり、自治が発達し、一揆を形成して武装していた。 | ||||
| ● 伊賀流 / Iga-ryū | ||||
| 伊賀は京都から流れてきた政治や情勢に精通した人材を忍者として育成できた為、数多くの優秀な人材を輩出した。 政治の中心であった京都から流入してくる人材は、教養のある者も多く、当時としてはまだ希少だった文字の読み書きができる者も伊賀忍者には多かったと言う。 | ||||
| 伊賀忍者は火術や呪術が得意とされており、中でも「九字護身法 / Kuji-goshinhou」という呪術は有名。 九字護身法は両手で印を結び、護身、厄除けのために用いられていた。 火術は火薬を使ったものが得意だった。 また、伊賀忍者では服部半蔵を輩出した服部家、百地家、藤林家が「上忍三家 / Jyounin - sanke」と呼ばれ、大きな発言権を持っていたと言われている。 | ||||
| ● 甲賀忍者 / Kōga-ryū | ||||
| 甲賀忍者は、伊賀忍者の宿敵やライバルなどといわれることの多い忍者集団だが、実際のところは山一つ挟んだ隣人同士であり、敵対しても何の得にもならないということで実は協力関係にあったと言われている。 | ||||
| 甲賀忍者の特徴は、甲賀の里を領地とする歴代の領主達との緩やかな主従関係にある。 甲賀忍者は「惣 / Sou」と呼ばれる共同体に属し、そこに参加する者はみな対等な立場だったと言われている。 里として意思決定を行う際も多数決で決められ、いわゆる民主主義に近い組織運営が行われていた。 この点は上忍三家が大きな発言権を持っていた伊賀流との大きな違いである。また、甲賀流は雇い主を特定の者に絞っていた。 これは、甲賀忍者の起源が地侍であったことから特定の大名との主従関係がはっきりしていたことに由来するものだと言われている。 | ||||
| また、甲賀流は雇い主を特定の者に絞っていた。 これは、甲賀忍者の起源が地侍であったことから特定の大名との主従関係がはっきりしていたことに由来するものだと言われている。 | ||||
| 甲賀は薬草が多く自生した土地柄のため、甲賀忍者は毒薬を用いた奇術が得意だったほか、普段の生活では薬売りを装って情報を集めていた。 | ||||
| ● 座頭衆 / Zatoushu | ||||
| 座頭衆は毛利元就の忍者集団で、全国をめぐりどこにいても怪しまれない座頭を各地の諜報要員として全国へ派遣した。 | ||||
| ● 風魔一族 / Fūma-ichizoku | ||||
| 現代の小田原市周辺に風間という谷あいの村があり、そこに住む特異の技術を身につけた人々で、代々後北条氏に仕えた忍者集団。 | ||||
| ● 三ツ者 / Mitsumono | ||||
| 武田信玄が組織したとされる忍者集団。最盛期には200人ほどの三ツ者を各地に送り込んでスパイ・内応・破壊工作に勤めさせたと言う。 | ||||
| ● 軒猿 / Nokizaru | ||||
| 上杉氏に仕えた忍者の名称。 江戸時代前期の日本の忍術伝書「万川集海 / Bansenshūkai」において、日本の忍びの呼び名のひとつとして「簷猿 / Nokizaru」が挙がり、「軒下に猿のように潜んで敵の内証を探る役」と説明されている。 上杉氏の忍びは「夜盗組 / Yatougumi」「伏齅 / Fushikagi」とも記述され、実際本人がどう呼んでたのかは不明である。 | ||||
| ● 雑賀衆 / Saikashu | ||||
| 戦国時代に紀伊国(現在の和歌山・三重県)南部を中心に活動していた傭兵を生業とする忍者集団。 紀伊国は海に面しており貿易が盛んであったため、種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、いち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案する。 | ||||
| ● 根来衆 / Negoro-shū | ||||
| 戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯(現在の和歌山県岩出市)に居住した僧兵たちの集団。 雑賀衆と同様に鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍した。 | ||||
| [忍者の歴史] | ||||
| 忍術の起源には多くの説があり、はっきりとわかってはいない。 しかし一説によると「聖徳太子 / Shōtoku Taishi」に仕え、優れた軍術を駆使して多くの功績を上げた「大伴細入 / Ootomo No Hosohito」に「志能便 / Shinobi」という称号を与えた事が 忍者のはじまりだとされている。 | ||||
| 忍者の存在が史料上確実に確認できるのは、1336年~1392年の南北朝時代以後で、その起源は13世紀後半に寺院や貴族などによる荘園制支配に抵抗した悪党にあると考えられる。室町時代に入ると荘園制度の衰退により、悪党の活動も減少していくが、その代わりに悪党の血を引いた「地侍 / Jizamurai」が頭角を表す。 彼らは戦国時代に入ると、徳川家や足利家など各地の戦国大名に召し抱えられ、やがて忍者とよばれるようになる。 南北朝時代の内乱を描いた軍記物語「太平記 / Taiheiki」には、忍者が夜間、風雨の音に紛れて敵陣に侵入して火を放つ場面や、敵方に潜入した忍者が合い言葉を知らなかったために見抜かれる場面がある。 | ||||
| 伊賀・甲賀は、織田信長軍によって壊滅的打撃が加えられるが、 天正10年(1582)6月2日の本能寺の変後に、徳川家康が堺(現在の大阪府)から伊賀・甲賀を越えて白子(現在の三重県鈴鹿市)を経由して本拠地である岡崎(愛知県)に逃れる際、 伊賀者・甲賀者は山中の護衛をした他、さまざまな戦いで家康の先陣をきって戦ったことにより、家康は伊賀者・甲賀者を取り立てることとなった。 伊賀越以前からの家臣であった服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。 | ||||
| 戦国時代には敵国への侵入、放火、破壊、夜討、待ち伏せ、情報収集などを行ったが、 江戸時代になって平和な世の中が訪れると、忍者は戦闘する機会も減り、主な仕事が情報収集や警護へと変わっていく。 | ||||
| 天正18年(1590)8月1日、徳川家康が江戸に入府すると、伊賀者・甲賀者は江戸城下に住み、 大奥や無人の大名屋敷などの警備、普請場の勤務状態の観察などを行うほか、寛永初年(1624)ころまでは隠密としても活動した。 また鉄砲隊として甲賀百人組、伊賀百人組に編成され、百人番所に勤番で詰めて、江戸城大手三之門の警備を行ったりしたほか、諸大名が抱える事もあった。 | ||||
| 幕末になると、アジア進出をもくろむ西欧各国が日本に開港や通商を求めて来航するようになる。 1853年(嘉永6年)にアメリカ大統領の親書を携えたペリー提督が4隻の黒い戦艦を率いて現れた。 このとき伊勢国の津藩(現在の三重県津市)藩主「藤堂高猷 / Tōdō Takayuki」は、召し抱えていた伊賀忍者「沢村甚三郎 / Sawamura Jinzaburou」に、ペリーが乗る蒸気船の調査を命じている。 沢村甚三郎は蒸気船に潜入して船内を探索し、書類やパン、タバコ、ロウソクを持ち出して藩主に届けた。 このうち書類は、乗組員が出会った女性達の感想を綴った落書きだったが、沢村甚三郎が確かに密命を果たし、また忍者は幕末まで存在して鍛錬を続けていた証となる。 そして、これが忍者と呼ばれる者の最後の任務となり、忍者はその役目を終えた。 | ||||
| 大正時代になって、立川文庫から『猿飛佐助』が発刊されると一大忍術ブームが巻き起こった。 その後『霧隠才蔵』『百地三太夫』など相次いで「忍術名人」を扱った作品が生み出された。 それとともに、尾上松之助主演の忍術映画『豪傑児雷也』が大ヒットする。 | ||||
| 戦後には、女性忍者である「くノ一 / Kunoichi」が活躍する作品が登場した。 くノ一は女中や小間使いとして潜入して諜報活動を行っていた女性の忍者。 史実として武田信玄に仕えた歩き巫女の集団が有名。 戦後における女性の社会進出に呼応して、くノ一がさまざまな作品で描かれるようになった。 | ||||
| 1950年代末から60年代には忍者小説が続々と出版された。 司馬遼太郎「梟の城」、村山知義「忍びの者」、山田風太郎「忍法全集」などが代表的作品である。 「忍びの者」「隠密剣士」といった映画が大ヒットし、 そこでは黒装束を身にまとい、塀を跳び越えて素早く走り、水の上も沈むことなく駆け抜け、手裏剣を立て続けに打つ忍者が活躍した。 | ||||
| 子ども向けマンガでは忍者が恰好の素材となり、テレビでも放送されて大人気となった。 「サスケ」「カムイ伝」「伊賀の影丸」「仮面の忍者赤影」「忍者ハットリ君」「科学忍者隊ガッチャマン」「忍たま乱太郎』など、 それぞれの時代を反映した忍者作品が制作された。 | ||||
| 海外においても忍者は大人気で、1980年代には米国製ニンジャ映画の大ヒットでアメリカにニンジャブームが巻き起こる。 ショー・コスギによる「Enter theNinja」を皮切りに、アメリカを中心に忍者映画が制作され、 「Teenage Mutant Ninja Turtles」、「NARUTO」といったアニメやゲームによりNinjaファンになった若者も多く、 数多くのゲームや忍者関連グッズなども製作されている。 | ||||
| [外部リンク] | ||||
| 日本忍者協議会 | ||||
| 忍者とは?成り立ちや役割、忍者の種類を解説|- 観光三重 | ||||
| 忍びの里 伊賀・甲賀|日本遺産ポータルサイト - 文化庁 | ||||
| 第33回 NINJA 虚像エンタメと実像ホンモノ|本の万華鏡 - 国立国会図書館 | ||||
| 忍者オフィシャルサイト - 伊賀流忍者観光推進協議会 | ||||
| 伊賀流忍者博物館 | ||||
| 忍者の里 伊賀市公式観光案内 | ||||
| 国際忍者研究センター - 三重大学 | ||||
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