![]() |
徳川家康 / Tokugawa Ieyasu |
||
生誕:天文11年(1542年)12月26日 ▶︎ 死没:元和2年(1616年)4月17日 | |||
駿河国(現在の静岡県中部)出身。松平広忠の嫡男。 幼名は竹千代。 | |||
天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府(現在の愛知県東半部)へ送られるが、 護衛家臣の裏切りで織田家で人質として過ごすことになる。 | |||
天文18年(1549年)、織田信秀の息子である織田信広と竹千代の人質交換で今川氏へ。 | |||
天文24年(1555年)3月、今川義元の元で竹千代は元服を迎え、松平元信と名を改める。また、その2年後には祖父清康の勇名を慕い、「元信」から「元康」へと改名する。 | |||
永禄元年(1557年)、元康は今川義元に命じられ西三河攻めで初陣を飾る。 | |||
永禄3年(1560年)、元康は桶狭間の戦いで今川軍の先鋒を任され出陣。今川軍は織田信長の急襲に遭い敗戦。家康は今川義元の戦死を境に今川家と決別し岡崎城に戻る。 | |||
永禄5年(1562年)、元康は今川家の支配から逃れ、信長と同盟(清洲同盟)を結ぶ。更に、翌年には名前を「家康」へ改名する。 | |||
永禄7年(1564年)、家康は「三河一向一揆」を鎮圧させて三河国を統一。 | |||
永禄9年(1566年)、家康は苗字を「徳川」に改姓し、従五位下三河守に叙任される。 | |||
家康は、本拠の三河国を平定後は信長に協調、従属しながら今川氏や武田氏など周辺大名と抗争を展開、勝利して版図を遠江国・駿河国にまで広げていく。 | |||
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が死亡。家康は、その後に発生した天正壬午の乱を制して甲斐国・信濃国を手中に収め、5か国を領有する大大名となった。 | |||
天正12年(1584年)4月9日、家康は信長没後に織田政権で勢力を伸ばした豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙するが、後に秀吉に臣従する。 | |||
天正18年(1590年)、家康は小田原征伐後に北条氏の旧領関東8か国への転封を命ぜられ、豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる。 | |||
秀吉没後の慶長5年(1600年)、家康は関ヶ原の戦いで東軍を率いて西軍に勝利し天下人の地位を獲得。 | |||
慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。 | |||
慶長10年(1605年)4月16日、家康が征夷大将軍を辞する。世子秀忠が征夷大将軍・内大臣に任じられる。 | |||
慶長12年(1607年)、家康は駿府城に移り「駿府の大御所」として主に朝廷・寺社・西国大名・外交を担当した(大御所政治)。 | |||
慶長20年(1615年)、家康は大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させ、江戸幕府が中心となって日本を統治する幕藩体制の礎を築いた。 | |||
元和2年(1616年)4月17日、家康は駿府城において75歳(満73歳4か月)で死去 。 | |||
家康没後、遺体は駿府の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、遺言通り、一周忌を経て関東平野の最北部にある日光東照宮に祀られ神格化され、江戸時代を通じて崇拝された。 | |||
[外部リンク] | |||
静岡人必読 今さら聞けない 徳川家康 - 静岡新聞 | |||
徳川家康公について - 久能山東照宮 | |||
徳川家康公の郷 - 岡崎市観光協会 | |||
徳川家康と駿府 - 駿府城公園 | |||
徳川家康 - Wikipedia | |||
[戻る] | |||
Copyrightc Strategic Marketing Service All Rights Reserved. | |||