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Hanami / 花見
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主に桜の花を観賞するために野山に行き、春の訪れを寿ぐ日本古来の風習。
日本人の季節感を形成する重要な春の風物詩。
桜以外の花を見に行くときは「梅見」「観梅」「観菊」などとその花の名前をつけて表す。
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日本の花見は、奈良時代の天皇や貴族といった上流階級の人々が花鳥風月を歌に詠む文化がすでにあり、歌を詠み、花見の宴を開いて楽しんでいた。それが今に繋がるお花見の起源だと言われている。
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奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞されていたが、平安時代にお花見の花が梅から桜へと移り変わって行った。
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桜の花でのお花見の起源は、「日本後紀」によると、812年に京都の庭園・神泉苑で嵯峨天皇が催した「花宴の節」という宴であると記されている。
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一方、農民たちの花見は、個人の趣味や風流の行事ではなく、屋外に臨時のかまどを設け、飲食しながら桜の開花を農作業を始める時期の目安としたり、桜の咲く時期や花の向きで豊作・凶作を占うなど、豊作祈願の神事であった。 |
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鎌倉・室町時代には、貴族の花見の風習が武士階級にも広まっていきました。
吉田兼好が『徒然草』の中で身分の高い人と田舎の人の花見の違いを説いている事から、鎌倉時代末期から室町時代初期の頃には、既に地方でも花見の宴が催されていたことが窺える。 |
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その後、桜を愛でる花見の文化は武士の時代となっても変わらず定着していき、安土桃山時代には野外に出て花見をしたことが、豊臣秀吉が行った奈良の吉野山で5000人の家臣や武将を伴い催した『吉野の花見』(1594年)や京都の醍醐寺で催した約1300人を集めた豪華絢爛な宴、醍醐の花見(1598年4月20日)で確認できる。一説には色鮮やかな花見団子もこの時に振舞われたと言われている。
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江戸時代中期になると、都市部に住む町民が増加。庶民文化も豊かになり、その中で酒盛りとしての花見も広がって行った。江戸時代初期、徳川家によって上野に江戸城鎮護を祈願し寛永寺が建立されると、天海僧正により奈良の 吉野山 から桜が移植され、江戸の人々にとって随一の桜の名所(現在の上野恩賜公園)になった。
1720年には江戸幕府8代将軍の徳川吉宗が浅草の墨田川堤(現在の隅田公園)や飛鳥山(現在の飛鳥山公園)に桜を植えさせ、庶民の行楽を奨励した。
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その後も次々に名所ができ、行楽の花見は広がった。現代も花見の行楽は続いており、開花の時期には桜の名所は花見客で賑わっている。
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[外部リンク] |
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お花見の歴史とお花見弁当 -
農林水産省
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日本の桜 -
農林水産省
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梅の郷に出掛けよう -
農林水産省
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全国さくら名所情報 -
公益財団法人日本さくらの会
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花見 -
Wikipedia
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